IkawaMitsuhide’s blog

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論語ってもっと身近なのかも

我十有五にして・・・

 最近、この本を読みました。

 

一億三千万人のための『論語』教室 (河出新書)

一億三千万人のための『論語』教室 (河出新書)

 

 

論語をただ翻訳するのではなく、言葉の裏に隠された孔子の考えまで踏み込んでいます。読み物としてもとても面白いです。

 

 この本を読んでいて、特に印象的だったのは「我十有五にして〜」という有名な言葉を翻訳した箇所です。

 

大抵の場合、以下のように訳されているかと思います。

孔子先生はおっしゃいました。「私は十五歳のときに学問を志し始めました。三十歳にして独り立ちをし、四十歳で迷うことがなくなりました。五十歳のときに天命を理解し、六十歳のときに人の意見を素直に聞けるようになりました。七十歳の時にやっと自分の思うままに行動をしても人の道を踏み外すことがなくなりました。」と。

引用:論語『子曰、吾十有五而志乎学(吾十有五にして学に志す)』解説・書き下し文・口語訳 / 漢文 by 春樹 |マナペディア|

 

 これを読むと、勉学を極め続けた孔子にしか言えない言葉だな〜、と思ってしまいます。なんというか、一般人には立ち入れない境地のようなものを感じてしまいます。当時の弟子たちはこの言葉を聞いてどう思ったのでしょう。

 

しかし「一億三千万人のための『論語』教室」では、も違う訳し方がされているのです。以下にその引用を載せます。

「わたしが学問の道を歩こうと思ったのは十五のときです。三十になったときには自信満々だったし、四十では怖いものなんかなかったですし。、でも五十になったとき、自分の限界がわかったんですね。六十になると、誰のことばでも素直に聞くことができるようになりましたね。で、七十になったときには、なんでも好きなことをやってんのに、人にイヤがられるようなことは一つもなかったってわけです。」

 

 この訳では、50歳が人生のターニングポイントであると言えます。40歳までは若気の至りといったものが感じられますが、50歳を迎えて自分がいかに小さいか知り、人間が丸くなったみたいです。偉大な孔子センセイも同じにんげんなんだな〜、と思えてきませんか?

 

“天命”の捉え方

 2つの訳を見てみると、行っていること自体はそんなに変わらないことがわかります。では、どこで差がついたのでしょうか?それは、天命をどう捉えるか、です。

 わたしの場合、天命と聞くと、天の導きとか運命といったものを連想してしまいます。実際に辞書で調べてみても同じような内容でした。ことば通りの意味で受け止めて、先ほどの文を読めば、一般的な訳になり、「やっぱ、孔子は俺たち一般人には理解できないわ」となってしまいます。しかし、天命を自分に課せられた制限だと考えると、もっと柔らかく、かつ普通の人間にも当てはまる言葉に聞こえます。

 

弟子へ伝えたいこと

 「一億三千万人のための『論語』教室」を読んで感じたこととして、孔子は弟子の教育を大切にしていたことです。同じことを聞かれても弟子によって返事の内容を変えていることはこのことをよく表しています。

 そんな孔子が弟子に向かって人生の道標とも言えるあの発言をしたと考えると、どちらの意味としても捉えられます。最初の訳では「何年もかけて勉学を積むことで見える境地がある」と教えられているように思えます。2つ目の訳では「人生はどこで考え方が変わってもおかしくない」と伝えているように聞こえます。

 孔子の文章は全てを一度に語り尽くしません。私たちに考える余地を残しているように感じます。もしかしたら、弟子がどのように言葉を理解するか観察していたのかもしれませんね(ただ単に、孔子が誰ともなしにつぶやいただけかもしれませんが・・・)

 

考えたこと

 論語に限らず、複数の意味で解釈できる言葉は多いと思います。そんな言葉に出会ったとき、どう納得するかはともあれ、いろんな角度で言葉を捉えられたら人生はもっと豊かになるのかな〜、なんて考えました。

 

  他の有名な言葉がどんなふうに解釈されているか知りたい人はぜひこの本を読んでみてください。

一億三千万人のための『論語』教室 (河出新書)

一億三千万人のための『論語』教室 (河出新書)